カテゴリ:アブダビ( 26 )

冬がやってくる

みなさまこんにちは。齋藤です。
今日はアブダビ(UAE)ネタ。


きれいでしょ~。

これからの季節、湾岸には朝夕、とても濃い霧が立ちこめるようになります。
今でも思い出すのは、アブダビに住んでいた頃、冬休みの一時帰国から戻った時のこと。
やはり濃い霧のために飛行機がドバイ空港に降りることができず、
結構遠いバーレーン国際空港まで行っちゃったことがあります^^;

霧の後、ぽつぽつと雨が降り出したら、いよいよ湾岸の冬、です。






by chicayoshi | 2014-10-21 14:14 | アブダビ | Trackback | Comments(0)

交通標識

みなさま、こんばんは。

久々にアブダビネタ。

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現地に行ってた時に某SNSサイトにあげたことがあったのですが、
いろいろ写真整理してたら出てきた結構気に入っている二枚。
二枚目、歩く人の絵がちゃんとカンドゥーラ着てるでしょ^^。

返す返すも心残りなのは、郊外に出た時に見かけた
「駱駝注意」
の標識の写真が撮れなかったこと。
ええ、あったんですよ、ほんとに。
いつか再訪した時には絶対撮るもんね。

もうすぐラマダンです。






by chicayoshi | 2014-06-24 22:56 | アブダビ | Trackback | Comments(0)
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みなさまこんばんは。齋藤です。

猫が好きです。ええ。
いつか猫と暮らすのが齋藤の悲願であります☆
(いや、もちろん犬も好きですよ。基本的に動物はなんでも好き。)

さてそんなわけで今宵は、
今年2月に福島民報「ティータイム」に掲載された、アブダビの猫の話。
(この時は掲載情報をアップできませんでした。申し訳なし。)
アラブの人は本当に猫が好きです。
私が住んでいたフラットの周りにも当然猫がたくさんいて、しかも人懐こい。
彼らと遊んでいるうちにご近所の子どもやおじさん、おばさんが声をかけてきて、それで彼らとも仲良くなりました。
アラブの人って、なんとなく彼ら自身の性格や考え方も「猫っぽい」と思います。もちろん、よい意味でね。

では、どうぞ。

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アブダビの猫は、まるくならない。

 アブダビの猫は、まるくならない。


 いつも通りの暑い日だった。この日も授業を終えて、同僚のアイーシャと教室を出て帰ろうとしていた、その時。中庭からものすごい勢いで白い塊が飛び込んで来て、私とアイーシャの間をすり抜けた。そのまま唸り声をあげて教室をぐるぐると三周ほど駆けまわったかと思うと、教室の後ろに敷かれた絨毯の上にばたりと倒れて動かない。猫だ。

 アイーシャと二人で近寄ってみるとまだ子猫で、きれいな白い身体を伸ばしたまま、すうすうと眠っている。

「喧嘩でもしたのかしらねえ、かわいそうに。ずいぶん疲れてるわ」

アイーシャがつぶやくように言うと、遠くから別の猫の穏やかでない鳴き声が聴こえた。どうやら追いかけられて逃げて来たらしい。私たちはこの小さなお客さんに餌もミルクもやらないかわりに追い出すこともせず、ドアを半開きにしたまま、そっと教室を出た。


 アラブ首長国連邦に限らず、アラブの人々はみんな猫が大好きだ。こんなふうに家や学校に猫が迷い込んで来るのもよくあることで、誰も嫌がらない。大きなスーパーマーケットなどに行くと必ず入り口に猫の餌と水を入れるための皿が置いてあって、人懐っこい猫が厳めしい顔をした警備員のおじさんと一緒に「店番」をしている。店に来る客はみんな通りすがりにおじさんに声をかけ、まるまると太った猫のお腹を撫でていくのだ。

 なぜアラブの人々はかくも猫が好きなのか?ちなみに、犬は狂犬病などがあった名残だろうか、コーランでは「不浄な動物」とされていて嫌う人が多い。実際、猫はアブダビの街中にいるのに、野良犬を見かけたことは一度もなかった。

イスラームの始祖である預言者ムハンマドも大の猫好きだったこと。アラブの人たちにとって、猫は昔から貴重な食糧を荒らし病気を媒介するネズミを退治してくれる、よきパートナーだったこと。この二つが話を聞いた大方の人々の意見だったが、どうもそれだけとは思われない。きっと猫にはアラブの人たちをたまらなく引き付ける魅力が何かがあるのだが、今もって謎のままである。

この日の帰り道、乗っていたタクシーが路地で急ブレーキをかけた。今度は、猫の親子が飛び出したのだった。

「ごめんなぁ、お客さん。」

 エジプト人の運転手さんが、楽しそうに言った。

「猫はいいなあ、みんなに餌をもらって、かわいがられて、子どもを産んで。出稼ぎの俺よりずっといい暮らしだよ」


 アブダビの猫は、やっぱりまるくならない。


※2014年2月28日掲載。タイトルと本文を少々修正しました。


by chicayoshi | 2014-04-27 22:29 | アブダビ | Trackback | Comments(0)
みなさまこんばんは。齋藤です。

お正月三が日、みなさまどのようにお過ごしでしたでしょうか。

齋藤のお正月はですね。

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元日は、従姉と二人で映画を観に。
映画の前にお昼、ということで市内のショッピングモールに向かっていたら、大きな虹が!!
お~、これは吉兆!!
と二人で喜ぶ。

見てきた映画は、こちら。


眼にもココロにもとっても「美味しい」映画でした。おすすめ。

三日は、齋藤家毎年恒例、


ここで古いお札をお返しして、御祈祷受けて、新しいお札をいただいて、御神籤をひいて。

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御神籤、大吉でした~! ^^v

そんなこんなの、いつもと変わらないお正月でした。

で、いつもと変わらない中でもちょっとうれしいサプライズが。
年末からこの三が日にかけて(←え~)、いらないものをどんどん整理していたんですね。いわゆる「断捨離」、ですな。
そうしたら、ずっと仕舞いこんでいた子どもの頃の宝物が出て来たんです。

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外国の切手。
ほとんどは英語教師をしていた母が昔文通していた方("DDR"って旧東ドイツですね)から、
おそらく話の種として??まとめて送られてきたもので、
私が子どもの頃にもらい受けたものだったのですが。

その中に混じって、私が子どもの頃にどこぞやで父にねだって買ってもらった、
やはり外国の鳥の切手が。
(おそらく福島市のデパートに鳥の博覧会か何かが来た時に売っていたものだと。。。)

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おおお~、なつかしい!!

この切手たちね、とってもきれいなので当時小学校低学年だった私は子ども心に大好きで、
父からもらった切手帳の一番最初のページに収めていつも開いては眺めていたんですよ。
うわ~、こんなところにしまってあったんだ~!と手に取って眺めておりましたら、

ん?
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あら、アラビア語じゃないですか。
そういえばどこの国の切手だったんだっけ・・・?

え??

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RAS AL KHAIMA !?


……ええ、そうです。

なんと あのラス・アル=ハイマ の切手だったんです!!

つまり今から30年近く前(←!!)の小さな私は、
どこの国のものともわからずに、
そして数十年後に自分が実際に行って忘れられない体験をするとは知る由もなく、
これらの切手を宝物として日々眺めていた、と。
なんという。。。
(「これ、どこのくにのきって?」とか、なぜあなたは誰にも聞かなかったの、ちかちゃん。)

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さらにこちらは、サルマ先生のお兄さんが住んでいるシャルジャのものでした。

毎年毎年、アブダビやラス・アル=ハイマの思い出は薄れてゆくばかりで、
いつ再訪できるかもわからなくて、
サルマ先生たちにいつまた会えるんだろう、とずっと考えていたのですが。
この小さな切手たちが思いがけず出てきてくれたことで、心がほっこりとあたたかくなりました。

この切手を何も知らずに眺めていた私が引き寄せられるようにラス・アル=ハイマに行くことになったのも、
サルマ先生たちに会えたのも、きっと「ご縁」なのでしょう。

どんなに迷っても、
人は歩き続けている限り、必ずその人の行くべき場所にたどり着くことができるし、
かならず、出会うべき人にめぐりあえる。
だからきっと、サルマ先生たちにもまた会える。会いに行こう。
そして、サルマ先生やお母さんとぎゅ~っとハグをして、
思い出話をしながらいっしょに甘いミルクティーを飲もう。

いつになるかはわからないけれどその日まで、とにもかくにも、歩き続けなければ、ね。

そう、しみじみと思ったことでした。

ちなみに。
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この切手が入っていた封筒とそこに貼られている封筒もまた、すごくて。

……1975年のアポロ・ソユーズテスト計画の時の記念切手……!?

(ねえ、なぜこれになんの疑問も抱かずにずっと引き出しにしまっておいたの、ちかちゃん。
いや、すてなかったのはえらいけどさ。。。)

もちろんこれらは、「断捨離」なんてしませんよ!!

と、いうわけで齋藤の今年のお正月でした!








by chicayoshi | 2014-01-04 22:15 | アブダビ | Trackback | Comments(2)

戦争と「はちみつ」

みなさまこんばんは。齋藤です。

さて、今日は、昨日福島民報のリレーエッセイ「ティータイム」のコーナーに掲載された、

戦争と「はちみつ」

を転載いたします。

いつもは掲載されてからかなり時間が経っているものを転載しているのですが、現在のシリアの状況を考えると、ぜひともこのタイミングで「みしゅみしゅ」を訪れてくださっているみなさまにも読んでいただきたい、と思いました。

この極東の田舎町にいて、私はまったく無力です。

アブダビにいればまだ、彼女の家に飛んで行って抱きしめることはできたかもしれません。

今私にできるのは、彼女にメッセージを送り続けることと、彼女と彼女の家族のことを、日本のみなさんにも知ってもらうこと、それだけです。

ちなみに、これはツイッターでも少し書いたのですが、彼女は私がアブダビを離れてから少しして、突然公立小学校の教師の職を解雇されています。ご主人も一緒に。彼女のメールによると、

「今後公立学校での英語の指導は全て欧米人の教師を雇うから」

ということでした。彼女たち、シリアやレバノン、パレスチナ出身の教師たちがこういう国の事情に振り回されるのは、実は珍しいことではありません。UAEでは建国以来、欧米からだけではなく、アラブのいわば「先進国」である、イラクやシリア、エジプトなどから多くの教師や医師、弁護士などの専門職を集めてきており、彼らの力もあって発展してきた部分が大きいのですが、数十年経って教育の水準もだいぶ上がり、多くの高等教育を終えたUAE国民の雇用を確保する必要が出てきたことや(単純労働はさせられません)、今後原油の輸出をもとにした国の維持がどんどん難しくなっていくことが予想されるため、積極的に国民の労働力を高める必要があること、などから、外国人(アラブ人)の待遇がめまぐるしく変わっているのです。(なんだかんだで別の民族、部族ですから、差別意識もあるのかもしれません。)

私がいた頃には

「今後公立学校では、UAE国籍の教師を**割以上雇用しなければならない」

という通達がやはり突然出され、

「この学校はその基準を満たしていない」

という理由で、パレスチナ人の同僚がやはり新学期が始まったばかりだというのに転勤を命じられていました。朝、エクラスたちが泣いていたのを今でも覚えています。

私はこれまで

「アラブ」=「危ない、野蛮、遅れている」「テロや戦争ばかり」

という日本の人が多くもつ(私自身ももっていた)ステレオタイプを払拭したくて、できるだけ

「あったかさは日本と変わらないんですよ」「アラブの文化って、いいでしょう?」

という書き方をしてきました。(このスタンスは、これからも変わらないとは思います。)
でも正直に言えば、私の中東情勢に関する知識は今もって全くの付け焼刃で正確に書ける自信がない、ということもあったのです。

でも、少なくとも今は、自分の知っている彼女たちの現実を、ささやかでも書かなければならないと思いました。私の書き方で。

それでは、どうぞ。


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戦争と「はちみつ」


この子の名前は、アサル。「はちみつ」っていう意味なのよ。

彼女はそう言って、少し恥ずかしそうに「日本」という遠い国から来た私を見ている五歳の娘に微笑みかけた。ほら、齋藤先生に英語でごあいさつしてごらん?

アラブ首長国連邦の公立小学校で日本語教師として働き始めてから帰国するまで、通訳も兼ねていろいろと相談に乗ってくれたのは、高学年の英語を担当しているエクラスだった。国籍はシリア。ご主人も別の公立学校で英語の先生をしている。この日はいつもより早く終わった仕事の後に「家まで送るから一緒に帰ろう」と誘ってくれて、その途中、幼稚園に通っている彼女の娘、「はちみつ」ちゃんを迎えに寄ったのだった。

ごあいさつは、ともう一度言われたアサルは、小さな声で早口に「はじめまして」と言って私と握手すると、くすくす笑いながらエクラスの後ろに隠れてしまった。お母さんと同じ、白い肌。天然パーマのかかった栗色の髪の毛がふわふわと風に泳いでいる。エクラスの後ろからひょこっと顔を出すと、長い睫毛に縁どられた大きな瞳も明るい茶色で、微笑むと光の加減で一瞬金色に見える。

エクラスは学校に何人かいる英語の先生たちの中でも、ずば抜けてきれいな発音の正確な英語を話した。学校に欧米からのお客様が来た時に通訳をするのはいつも彼女だったし、教育委員会などに提出する英語の書類(公文書はアラビア語と英語、両方用意しなければならない)をチェックするのも彼女だ。何度も見学させてもらった授業は沢山のゲームや歌がテンポよくたくさん出てきて、大人の私でも飽きなかった。

そんなエクラスとここのところしばらく途絶えていた音信がようやく復活したのは、先週のことである。彼女の実家は、現在さらに情勢が緊迫しているシリアにある。

「ダマスカス市内の実家が爆撃を受けて、両親も兄弟も避難したの。幸いみんな今は無事だけれど母は癌を患っていて、でもそういう状態だから治療を受けることも薬をもらうこともできない。心配でたまらない。せめて両親だけでもアブダビに呼び寄せたいのだけれど、アブダビ政府はシリア人へのビザの発給をストップしちゃったの。」

夜遅く、きっと急いで打ちこんでくれたのだろうメールに、私は絶句するしかなかった。以来ずっと、授業をしている彼女の元気な声やアサルの小さな手が、頭の中をぐるぐると巡り続けている。

by chicayoshi | 2013-09-07 20:40 | アブダビ | Trackback | Comments(0)
みなさまこんばんは。
齋藤です。

何と今日は!

で、で、デイツを手に入れました~~~~~!!!

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灯台もと暗し、とはよく言ったもので、福島駅の駅ビルに入っている輸入食材のお店(いつもコーヒー豆を買う)で売っていましたですよ。
パッケージをみるとアメリカ産、とな。

私はサウジアラビア王室御用達

「バティール」のデイツ以外はデイツじゃねえ、と密か?に思っているんですが、

・・・・・・いや、嘘です。デイツはどこのデイツだっておいしいです。いいんです!
もう手に入っただけでも欣喜雀躍でございます。

福島の駅ビルで売ってるぐらいですから東京でもちょっと探せばきっと売ってるんですが、
東京に住んでいた頃はなんか探す気力も時間もなかったんですよね。
うれしい。何年ぶりだろう。
珈琲と一緒においしくいただきます。


ちなみに。



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もちろん「みしゅみしゅ」も。
by chicayoshi | 2013-08-23 20:06 | アブダビ | Trackback | Comments(0)
みなさまこんばんは。齋藤です。

所属している歌林の会(通称「かりん」)の全国大会が来週末二日間に渡ってあるのですが、
断腸の思いで欠席の連絡をして激しくがっかりしております。。。まあ、しょうがない。こうなったら治すしかない。

これまでお届けしてきた「アブダビ通信」、本日で最終回です。お楽しみいただけましたでしょうか。

本当に、この原稿を書いてからこれまで、全くもって予想もできなかったことばかりでした。
きっとこれからも、自分が思い描いたように物事が進んで行くことは、まずないでしょう。

先のことはどうなるか、それは神様にしかわからない。
これは、イスラームに限らず、人間が気の遠くなるような年月を苦しみながら生きてきた中で気づいた、
ひとつの偉大な智恵、ですよね。
自分の、そして人間の力の及ばないことがこの世界にはたくさんある、ということを知っている人間は、謙虚です。その謙虚さは、やがて感謝に変わります。

毎日健康に暮らしていられることに。
少々ウザったいと思うことがあっても、心配してくれる家族がいることに。
嬉しことや哀しいことを、分かち合ってくれるパートナーがいることに。
一緒にくだらない話を延々として、一緒に笑える友だちがいることに。
美味しかったケーキに。
香りのよい珈琲に。
冷たいビールに。
今日たまたま信号待ちをしている時に目が合った赤ちゃんが、にこにこっと笑ってくれたことに。
きれいに晴れた空に。
恵みの雨に。
外を歩くときに、いつ爆弾が降って来るか、どこに地雷が埋まっているか、なんて気にしなくていい、平和な世の中に。
今日、あたたかくて柔らかい寝床で眠りにつけるということに。

・・・・・・とても書ききれることではないけれど、こういう感謝を一つひとつ数えているうちに、
人は強くなれる。強い人は、自分の大切な人たちの支えになることができるのです。
そう、私は信じています。
強くなりますよ、私は。

まあまあまあ。そんなこんなで、これからもちょこちょこアラブネタは続きますので、お楽しみに、インシャアッラー。



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アブダビ通信 最終回

もし神が、お望みならば


 初めて校長のサルマ女史に会った時、別れ際に彼女がにっこりと笑って、

じゃあサイトウ先生、インシャアッラー、また明日。

そう言った時のちょっとした驚きと感動は、三年が経った今でもはっきりと思い出すことができる。ああ、私は本当にアラブに来たんだ。
「インシャアッラー」。アラブ圏を訪れたなら誰もが耳にするこの言葉。アラブ人がこれから先の未来のことを述べようとする時に、必ず添えられる言葉である。

 放課後の職員会議は予定通りありますか、と同僚に聴いたとしよう。
「ええ、あるわよ。インシャアッラー」。

 帰り際、アブダーラに教室の蛍光灯を明日までに替えておいてください、と頼んだとしよう。
「わかりました、明日までに替えておきます、インシャアッラー」。

 仲の良い同僚に週末の予定を訊いてみる。
「インシャアッラー、妹たちを連れて、映画を観に行くの。そうだわサイトウ、インシャアッラー、今度はあなたも一緒に行きましょうね。」
ここで、私もにっこりと笑って、「インシャアッラー」と答える。

 同様に街にも、「インシャアッラー」は溢れている。
 テイラーで新しいアバーヤをつくったとしよう。いつでき上がりますか、と店員さんに訊ねると、
「インシャアッラー、今週の木曜日ですね」。

 帰りにタクシーに乗る。どこそこへ行ってください、と頼むと、パキスタン人と思われる運転手さんが、陽気な声で
「ノウ・プロブレム、インシャアッラー!」
と歌うように言う。車のバックミラーには、アラビア書道で「アッラー」と美しく書かれた飾りがかけてある。

「インシャアッラー」とは、日本語に直訳すると

「もし神が、お望みならば」

と言う意味である。神社でお賽銭箱に五円玉を放りこんで困った時の神頼みをすることもあれば、お寺に行って先祖の墓に線香と花を手向けたりもする典型的な日本人である私にとって、アブダビに来る前から知識として知ってはいたものの、アラブの人々と話す度に耳にするこの「インシャアッラー」はやはり不思議だった。職員会議の予定にしても、蛍光灯の取り替えにしても、どうしてみんな「神様がお望みならば」がつくのだろうか。何よりも、冒頭のサルマ女史である。

「もし神がお望みならば、また明日」。

――校長先生、明日学校でお会いできるのですよね――頭でっかちな私などは、こう訊き返したくなるところである。もちろん、会えるのだが。

 明日、と言えば、私のような外国人が就労ビザや健康保険証などの手続きを申し込むと、問い合わせる度に、あまり愛想のよろしくないアラブ人のスタッフが面倒くさそうに「インシャアッラー、トゥモロー」と言うばかりで、何日も何日も、下手をすると何カ月も待たされてしまう、というのも、こちらではよくある話である。この場合は断じて神様のお望み、は関係ない。ああそうですか、とおとなしく引き下がるとずっと放っておかれてしまうので、負けずに何度も何度も問い合わせて催促しなければならない。

 ともあれ、皆こんな感じで、「インシャアッラー」と言葉を交わす。外国人にとっては「もし神がお望みならば」という直訳ばかりが頭にあるし、先に書いたように仕事を先延ばしにする時に使われたりもするので始めは違和感を覚えるのだが、言わば、アラブ社会における一つの挨拶、というか決まり文句なのである。ちょうど日本語の「ありがとう」が、そのままの意味だと「有ることが難しい」になるが、皆それはあまり気にせずに使っているのと同じ感覚、と言ったらよいだろうか。
「インシャアッラー」という言葉の根底には、「先のことは神様にしかわからない」というイスラム教の考え方がある。じゃあまた明日、と言って別れたとして、次の日に本当に会える保証は何もないのである。どちらかが急に病気になるかもしれないし、悪天候の為に身動きが取れなくなるかもしれない。今でこそアブダビの人々はどの先進国にも負けない豊かさの中で生活しているけれど、彼らがずっと息が詰まりそうな真夏の熱風や、一瞬にして目の前が見えなくなる砂嵐と闘いながら生活してきたことを考えると、そしてそんな厳しい気候に右往左往する私たち人間をよそに、広大な砂漠やぎらぎらと照りつける太陽は当たり前のようにいつもそこにあった、という事実を目の前にすると、確かにそうだ、と私も頷いてしまう。何事も「神様がお望みならば」こそ、可能なのである。アラビア語では「インシャアッラー」の他に、「アルハムドレッラー(神様のおかげで)」という言葉も、頻繁に使われる。

 3年間の仕事の契約期間が満了し、私はこの6月で日本に帰国する。アブダビでの生活の中で出会った、沢山の人たち。もっともっと彼らのことを知りたかったけれど、そして日本のことを知ってもらいたかったけれど、私はひとまずここで、彼らにさようならを言わなければならない。さみしくはない。ほんの数年前まで、私は自分が日本語教師になることも、外国で暮らすことも、ましてやアラビア半島のこのアブダビという街で生活することも、予想だにしていなかった。あの頃の私がこの未来を知ったら、どんな顔をするだろう。まことに、未来のことは神様にしかわからないのである。これから日本に戻る私にも、またきっと、想像もつかないような未来が待っているに違いない。

 学校に出勤する最後の日、サルマ女史がいつもと変わらない笑顔で言った。

インシャアッラー、私のお母さんと一緒に、いつかきっと日本に行くわね。あなたも、またいつでもアブダビにいらっしゃいね。神様がずっとあなたを守ってくださいますように。

 私の手を握るサルマ女史の手は、温かかった。サルマ女史にも、サルマ女史の母君にも、甘いものが大好きでいつもにぎやかな同僚たちにも、働き者のアブダーラにも、そしてこの街の太陽に負けないぐらい元気のよい子どもたちにも――またきっと、会えるだろう。

 もし神が、お望みならば。



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by chicayoshi | 2013-07-19 22:28 | アブダビ | Trackback | Comments(0)
みなさまこんばんは。齋藤です。

アブダビ通信7回目です。

ウード。
結局、日本に帰って来てからせっかく素晴らしい先生に出会うことができて習い始めたにもかかわらず、
いろいろあって通い続けることができず無期限休止状態の私のウード修行ですが、今もよくCDを聴いています。

アブダビでウードの思い出、といったら真っ先に頭に浮かぶのはもちろんこのウード教室ですが、
もう一つは、まさに神に愛されたウード奏者である

ナスィール・シャンマ

の演奏を生で聴く機会に恵まれたこと。ほんとうにもう、「きらびやか」。私は、

このCD

が一番お気に入りです。


ちなみに、私が習った

フェイルーズはこちら。

練習していた歌は、こちら。

さて、アブダビ通信は明日(多分)が最終回です♪



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アブダビ通信 第七回

「楽器の女王」を探して

 真夏には毎日五十度近くまで気温が上がり、湿度も九十パーセントを超えるアブダビだが、十一月から三月にかけては、日本の初夏のような、からっとしてさわやかな気候が続く。それはそんな気持ちのよい天気が続いていたある週末の、ちょっとした冒険だった。

サイトウの住んでいるフラットの近くに、大きなスーパーマーケットがあるでしょう。その道路を挟んで向かい側の、奥にあるのよ。

エジプト人の同僚で、音楽担当のハーラに教えてもらった大雑把な説明だけを頼りに私が探しに出かけたのは、「ウード屋さん(兼ウード教室)」である。

 ウード、というのは、アラブの人々に「楽器の女王」と呼ばれている、アラビアの最も伝統的かつ代表的な楽器である。はるか昔からアラブの人々に親しまれ、シルクロードを辿ってやがてヨーロッパではリュートとなり、日本では「平家物語」でお馴染みの琵琶の元となった。アブダビのどの小学校の音楽室にも、必ず一台は置いてある。
 この楽器は全体が寄木細工でつくられていて、ゆで卵を縦に切ったようなその丸っこく気取らない胴の形と、丁寧に磨かれて浮かび上がっているその木目が非常に美しい。使われている木材の種類やその組み方によって、色づかいや模様も実に様々である。中には見事なモザイクになっているものやかなり手の込んだ螺鈿細工が施されているものもあって、そこまでいくともう楽器、というよりは職人による芸術品、と呼ぶべきであろう。
 丸っこい胴をひっくり返すと、平らで薄い板に五本の複弦が張られていて、大きく後ろに折れ曲がった竿の先でギターなどと同じようにきりきりと弦を巻いて調律をする。調律を終えた弦をプラスチック製の薄いピックで弾(はじ)くと、素朴だけれど力強い、そして不思議な音が心地よい振動と共に広がって私の身体を包む。

 どうも私は非常に「惚れっぽい」性格であるらしい。初めてウードを見たのはいかにも外国人観光客向けの「アラブ」を造りました、といった感じの少々嘘くさい観光施設だったのだが、それでも私はその中で行われていた演奏や楽器製作のデモンストレーション、そして楽器そのものの美しさに目が釘づけになってしまったのである。それ以来、この美しくて不思議な、でも形からして人懐こさを感じさせる楽器がずっと忘れられず、こちらで売られているウード奏者のCDを何枚も買って来ては毎日のように繰り返し聴き始め、例によって同僚の教師たちに、私、ウードが欲しいのだけれど、そしてできれば、一曲でいいから何か弾けるようになりたいのだけれど、と相談した。相談すると、どの人も大喜びで力になってくれようとするのがアラブ人である。この時もわいわいと同僚たちが話し始めるとたちどころにたくさんの情報が集まったが、その中でも一番自宅に近いと思われたのが、音楽担当のハーラが教えてくれた「ウード屋さん(兼ウード教室)」であった。かくて週末。サイトウ、「楽器の女王」ウードを求めて出発。

 さて、ハーラの言っていた我が家から歩いて十数分のところにある「大きなスーパーマーケット」の「通りを挟んだ向かい側のその奥」へは、アブダビに来てからまだ一度も足を踏み入れたことがなかった。通りの表側は「大きなスーパーマーケット」を始めとして、UAE内外の銀行の支店や日本にもある有名な語学学校の現代的なビル、やはり日本でもお馴染みのファーストフード店ばかり並んでいて、そこだけ見るとどこの国の都市にいるのかわからないほどなのだが、「その奥」は、明らかにアラブの――産油国ではないアラブの――人々の日常生活が溢れていた。肉屋さん。魚屋さん。パン屋さん。電気屋さんにクリーニング屋さんに、床屋さんに雑貨屋さん。そして、かなり庶民的な値段のアラブ料理の食堂。古びた看板はほとんどアラビア語で、それぞれの店の上階は住居用だということが、干されている洗濯物や窓からこちらを見下ろしている赤ちゃんを抱いた女性の姿でわかった。店の玄関では、立派なひげを蓄えたお爺さんたちが、椅子にどっかりと腰を下ろして、お茶を飲みながらお喋りをしている。その前を、毎日学校で着ているカンドゥーラ(民族衣装の白い長衣)を脱いでTシャツ姿になった子どもたちが、サッカーボールを追いかけながら走る。
 道は広くもないかわりに狭くもなく、わずか百メートル四方に碁盤の目のようにのびているだけなので、迷子になる心配はなさそうだった。それでも同じ大きさの建物に同じような看板がついた店が何軒も何軒も並んでいるので、きょろきょろしながらゆっくり歩いて行く。この中にウードのお店なんて、しかも教室もやっているところなんて本当にあるのかなあ、と思い始めたころ、やはりペンキの剥げかかった古い看板に、私はようやく、探し求めていた「楽器の女王」の絵を見つけた。ガラス越しに中をのぞくと、壁一面に飾られたたくさんのウードがやわらかく光っている。そしてゆっくりと入口のドアを開けると、あの弦を爪弾く音――。

 こうして見つけた「ウード屋さん(兼ウード教室)」は、その名を「ダル・アルトラス音楽・工芸教室」といった。ウードが主だが、他にピアノ、ギター、バイオリン、声楽(アラブ音楽)のコースがある。音楽の他にアラブの工芸品をつくるコースもあるらしい。
 プロのウード奏者である校長先生は年配のシリア人で、ほお、日本人かい、めずらしいね、と言ってお茶を出してくれた上、ウードが好きなのかい?そりゃあいい、すぐ弾けるようになるよ。そう言って、目の前で早速一曲披露してくれた。レッスンは一コース二十四回、約三万円。こうして見つけたウード教室で、私は今、レバノンの国民的歌手であるフェイルーズの弾き語りに挑戦している。



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by chicayoshi | 2013-07-18 21:22 | アブダビ | Trackback | Comments(0)
みなさまこんにちは。齋藤です。

アブダビ通信第六回目をお届けいたします。

まだ持ってますよ、アバーヤ。アブダビから呼ばれたら、いつでも出勤できます(笑)。
でももう帰国してから三年経ってしまったから、大分流行遅れなんだろうな。

少し前の映画「Sex and the City2」では、あの4人組がアブダビに繰り出すのですが。
映画の中でもアブダビの女性たちは、
ニューヨーカー随一のファッションオタクである主人公をして

「アブダビの奥さんたちってなにげにオシャレ(字幕ママ)」

と言わしめます。

そうなんですよ。オシャレなんですよ。めちゃめちゃオシャレなんです。
映画の製作スタッフもびっくりしたんでしょうね。

アバーヤの中に着ている服も、そりゃもうカラフルできらっきらです。
そしてそれがまた、みんな似合うんだ。

しかしこの映画は、やはりタイトルからして過激すぎるので、
舞台となったアブダビでの撮影は許可されず、実はモロッコロケ。
アブダビを含め、湾岸諸国では上映されませんでした^^;
じゃあモロッコ舞台の設定にすればいいじゃん、とも思うのですが、
やはりあのゴージャスさはアブダビ・ドバイじゃないとしっくりきませんね(4人全員がラズベリー賞とっちゃった内容はともかく)。


と~こ~ろ~で~。

盆地なのでとても暑いはずの福島。
東京から帰ってきた私にまるで「おつかれさん」と言ってくれているかのような涼しさ。

昨夜は久々にぐっすり眠った気がします。


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アブダビ通信 第六回

「アバーヤ」を着たい!

 袖を広げるとそれはまるで、羽化をしたばかりのアオスジアゲハが、ゆっくりと羽を広げたかのように見えた。光沢のある、しっとりと肌触りのよいシルクの黒。肩から袖口にかけて大きな、しかし軽やかな襞が幾重にもついた黒い薄布がふわりと被せられており、足元まで伸びている。その襞は鮮やかなエメラルドグリーンで繊細に縁どられているのだった。このエメラルドグリーンの縁どりにはさりげなく銀色のラメが入っていて、手にとって動かす度にきらきらと光る。ああ、これに自分好みに調合したお香を焚きしめて、月の明るい夜に着てコーニッシュ(海沿い)を歩いたりしたら、どんなに素敵だろう。高級感あふれる店内に明らかに場違いな東アジア人の客を、少々不審気に見ている店員さんに、思わず値段を訊いてみた。オーダーメイドで三千九百ディルハム、日本円にして、およそ十万円。
パーティー用のドレスの話、ではない。ここ、アラブ首長国連邦を始めとするアラビア半島の女性たちが毎日着ている、民族衣装「アバーヤ」である。

 正直なところ、アブダビにやって来るまでは、私の「アバーヤ」についての認識は、「真っ黒い服」以外の何物でもなかった。彼女たちが「アバーヤ」を着ているのは、イスラームの戒律で女性は肌を見せてはいけないから。女性ばかりがそんな暑苦しい服の中に閉じ込められているイスラームの掟は、やはり理不尽だ。でも、砂漠の厳しい太陽や砂埃から身体を守るためにはよいのかもしれない。だとしたら、ずっと砂漠で生活してきた、その名残のようなものだろう。

 ところが、である。アブダビにやってきてすぐに、私は自分のそんな思い込みを吹き飛ばされてしまった。
 どの女性のアバーヤにも、袖口に、襟元に、裾に、背中に、そして頭を覆う「シェアラ」と呼ばれるスカーフに、競い合うように実に様々な装飾が施されているのである。それは色とりどりの刺繍であったり、ラインストーンであったり、様々な大きさのスパンコールやビーズであったり、リボンであったり、レースであったり、あるいは直接染料で花模様が描かれていたりするのであるが、それぞれが漆黒の生地に非常によく映えて、いやが上にも目に飛び込んで来る。私が勤めている学校の同僚たちも毎日思い思いのアバーヤに身を包んでいて、

あらあ、そのアバーヤ素敵ね。どこのお店でつくったの?

これはね……

といった会話がいつも交わされている。
学校で一番おしゃれな社会科担当のアイーシャは、その日のアバーヤに合わせて高級ブランドのバッグや靴も毎回替えていて、日本に一時帰国する際に、新しくつくるアバーヤに使いたいから、キモノの生地を買って来てくれない?と頼まれた。算数担当のシェイハは毎回ドバイで一番大きなショッピングモールの中にある店でつくっている、と話していたし、図工担当のイマーンの親友アッザは、四歳になる娘がハロー・キティの大ファンなので、裾とシェアラにラインストーンで大きくハロー・キティをあしらったアバーヤをつくった、という。かわいいわよね、と話しながら笑うイマーンのアバーヤの袖には、シンプルな銀のラインがきらりと光る。

 そんな彼女たちに、私はいつの間にか夢中になって、私もアバーヤを着たい、お店に連れて行って!と子どものように頼んでいた。そうして手に入れたアバーヤを毎日着て学校に通うようになり、コレクションもささやかに増えて、今に至る。デザインを選ぶ楽しさもさることながら、すっぽりとアバーヤを着てしまえば中に何を着ていても構わない気楽さも、私にとっては嬉しい。こう書くと何だかだらしがないようだけれども、事実、アバーヤはこの地域の女性たちにとってのビジネススーツのようなものなので、職場をはじめとする大抵の場所は、きちんとクリーニングされた仕立てのよいアバーヤを着ていれば失礼にならないのである。今ではすっかりアバーヤ姿が板についた私に、始めは驚くやら喜ぶやらだった同僚たちは、サイトウ、あなた、もういっそのことムスリムになっちゃいなさいよ、と可笑しそうに笑う。

 アバーヤにも流行がある。街には専門のテイラーが何件も軒を連ねており、ショーウィンドウにそれぞれの店の威信をかけた新作を展示している。店内に展示されているアバーヤのバリエーションは、流行をしっかり取り入れつつも、どの店に行っても数えきれないほど。私がアブダビに来たばかりのころは袖口がラッパ型に大きく広がった形が主流であったが、昨年頃から逆に、袖口がきゅっと締まっているものが目立つようになった。ここのところ広まって来ているのは、締まった袖口はそのままに、肩から袖口にかけてかなりゆったりとドレープをとったもの。ちょっと日本の着物のような雰囲気である。私が思わず見惚れてしまった美しい蝶のようなアバーヤは、そこに更に手を加えられたものであった。価格から考えて、もちろん普段着ではなく、結婚式など特別な時のためのものであろう。冬になると、襟や袖口にファーの着いたものも出ていたりする。安いものは日本円で三千円前後、一般的には六千円から一万二千円の間のものが多い。もともとは身体のラインを隠すようにできている衣装だと思うのだが、客の注文に応じて身体にぴったり合わせたタイトな形にすることもできるし、少しお行儀の悪い十代の女の子は前開きのアバーヤを着ていて、ミニスカートを履いた素足をちらっとのぞかせていたりもする。おばさんくさく見えるから、アバーヤは着たくないわ、という女子高校生にも会った。そんな女の子たちを見て、昔ながらの本当にずどん、とした台形のアバーヤを着ている年配の女性たちは、やれやれ、最近の若い娘たちは困ったもんだね、と眉を顰めている。

この国が毎日ものすごい速さで変わり続けているのを象徴するかのように、アバーヤの流行も、移り変わりが非常に速い。さて、次はどんな形が流行するのだろうか。



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これはちょっと庶民的なお店。
by chicayoshi | 2013-07-17 18:07 | アブダビ | Trackback | Comments(0)
ラマダーン・カリーム!!

齋藤です。

一週間ご無沙汰してしまい、その間にアラブ圏では過酷な(夜は宴会、とはいってもやはり日中の暑さは危険です)ラマダンが始まってしまいましたが、
一応このブログは「最低週一回更新」というお約束?でしたので、ぎりぎりセーフ!ということで(汗)。

いや、さぼっていたわけではなく(ほんとか)、退職にあたっての引継ぎやらデータ整理やら、はたまた締め切りを過ぎてしまった原稿など(←おい)で、バタバタとしておりました。

それと、飲みはじめた薬がどうやら人によって結構深刻な副作用がでることがある、というので戦々恐々だったり(定期的に血液検査を受けます)。症状は一進一退、という感じ。ちゃんと薬が効くまであと1ヶ月~2ヶ月ぐらいかかるそうで。

さて久しぶりの今回は、「サルマ女史」の別邸に招待された時のお話です。

あの三月の大震災の時、サルマ先生をはじめ同僚たちが、
心配して電話をくれました。

「日本に電話をかけたの初めてだから緊張しちゃったわ~(笑)」

と言いながら。電話が繋がるようになってすぐ。何回もかけてくれていたらしいです。

地震と原発の事故を聞いて、

「ねえ、サイトウって今日本のどこにいるんだっけ?」

「ちょっと待って、東京じゃなくて北の方って言ってたわよね?」

「まさか海沿い!?」

・・・で、みんなで私がアブダビを離れる際に置いて行った名刺を必死で探し、

「住所に"Fukushima"って書いてあったから、みんなで本当に心配したのよ、無事でよかった!!」

と。サルマ女史は

「母もね、今本当によかったって隣で言ってるわ!
ほんとに、まだ原発の事故はどうなるかわからないでしょうし、余震もあるでしょうから、気をつけてね!」

なんかもう、ありがたくて嬉しくてただでさえ上手じゃない英語がますますめちゃめちゃになって、

「大丈夫です、私も家族も大丈夫です、ありがとう、ほんとうにありがとう」

というのが精いっぱいでした。



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アブダビ通信 第五回

らぁすあぁるはいま

 一緒にラス・アル=ハイマに行きましょう、と、勤務している小学校の校長であるサルマ女史が週末の帰り際に声をかけてくれたのは、ちょうど今(2009年)から二年前(2007年)のことである。
アブダビで暮らし始めて半年が経っていた。アラブの、というよりも、世界中の様々な文化や言語が飛び交う街での生活は毎日新しい刺激や発見に満ちていて想像していた以上に楽しかったが、半年経って不覚にも高熱を伴う風邪をひき、一日学校を休んだ。週末と合わせて三日間ぐっすり眠ったところすぐに治ったのだが、学校に戻ってみると、どうも見える景色がそれまでと違う。外に出ると、ビルの建設現場の出稼ぎ労働者たちがアラブ首長国連邦の女性の衣装である黒い「アバーヤ」を着ている私をじろじろと見るし、学校に行けば子どもたちは知っている限りのアラビア語や教えたばかりの日本語で、静かにしなさい、聴きなさい、席に着きなさい、と何度怒鳴っても大騒ぎで教室を走り回り、中には私のおかしなアラビア語の発音をあからさまに嗤う無礼者もいる。それでも同僚たちの仕事ぶりは学校の中だけ時間が止まったかのようにのんびりしていて、アラビア語で繰り広げられる休憩時間のおしゃべりは相変わらず笑いが絶えず楽しそうだが、楽しそうだということ以外私にはさっぱりわからない。来たばかりの頃のように何の話をしているの、といちいち訊ねるのも何だか申し訳ないような気分になって、三月だからもうすぐ日本は桜が咲くなあ、などとぼんやり考え始めると、渡されたカップに残る甘いミルクティーはどんどん冷めていくのだった。

 そんな気分で一週間を過ごしたところでサルマ女史から聴いた、らぁすあぁるはぁいま、という何やら呪文のようなその響きに少々面食らい、それはどこですか、と訊ねる私に、サルマ女史はもう一度きれいな巻き舌でらぁすあぁるはいま、と言ってみせてから、私の家の別邸があるのだけれど、とてもきれいなところなの。母とよく週末を過ごすのよ。きっとあなたも気に入るわ、と白い歯を見せて笑った。二日分の着替えを準備して待っていてちょうだい、迎えに行くから。

 年の頃は四十になるかならないかのサルマ女史は独身で、御年八十になる母君と二人で暮らしている(とはいえ家にはメイドさんが何人もいるし、同じブロックに兄弟や親戚の多くがそれぞれの屋敷を構えて住んでおり、一日中誰かしらが訪ねてきていて非常に賑やかなのだが)。美しくて賢い彼女に縁談は引きも切らないが、どれも家柄や賢さとなかなかつり合わないので全て断っているのだ、とも聞いた。アブダビでもかなりの名家であるサルマ女史の一族は国内外にいくつも別邸を持っていて、中でもラス・アル=ハイマにある別邸はサルマ女史とその母君のお気に入りなのだという。

 言われた通りに二日分の着替えを小さな鞄に詰めてサルマ女史と、その母君と一緒に向かったラス・アル=ハイマは、アブダビから自動車で三時間ほどのところにある小さな街であった。すぐ向こうは隣国オマーンである。私が訪ねた時期は既に荒涼とし始めていたが、広がる石だらけの砂漠は冬の間雨が多く降り、一面が緑で覆われる。街の中心部にはアブダビやドバイにあるような近代的な建物は少なく、道路沿いに石造りの小さな家々やペンキの剥げかけた看板を掲げる小さな商店が慎ましやかに並んでいた。そして、古いモスク。あちこちに放し飼いの羊や山羊や驢馬や家鴨、そして駱駝が歩いていて、ナツメヤシの実を栽培している農園のゴミ捨て場を漁ったりしている。車道にはあちこちに、「駱駝に注意」の標識が立っていた。

 やはり慎ましやかだけれど庭も屋内もよく手入れされているラス・アル=ハイマの別邸に滞在している間、サルマ女史の母君は、とても温かくこの言葉の通じない東アジア人を気遣ってくれた。お茶を飲みなさい。お腹は空いていないかい。これを食べてごらん。よく眠れたかい。母君は英語がわからないので、いつも傍らにいる娘のサルマ女史が通訳である。通訳をするサルマ女史はいつも学校で着ている真っ黒な「アバーヤ」を着ることはなく、鮮やかで大きな花柄の、ゆったりとした長衣を着ている。学校での優しいけれどきりりとした姿はそこにはなく、大きな花模様に負けないぐらいよく笑った。亡くなった父が仕事で何度か日本に行ったことがあって、よく日本の話をしていたの。その頃のアブダビはまだ本当に貧しくて、わからないことや不安なことばかりだったのだけれど、滞在している間、日本の人たちはどこに行っても本当に親切にしてくれたって。街も美しくて、素晴らしい国だって。自分たちもいつかこんな国をつくりたいと思ったものだって。母はね、ずっとあなたに会いたがっていたのよ。

 昼食は、二日間とも車を運転してきたインド人の運転手さんの奥さんとその子どもたち、スーダン人のメイドさんたちも一緒に囲んだ。大皿に盛られた鶏肉の煮込み料理や魚の揚げ物などを、各々が自分の皿に取り分けて食べる。午前中に農園で採って来たばかりの野菜でつくったサラダにはヨーグルトをかけて食べるのだが、小さな子どもたちはそのヨーグルトばかり食べようとするので、サルマ女史にお野菜もちゃんと食べなさい、とたしなめられたりする。食事が終わると、大人たちは庭の木陰に座り、子どもたちが遊ぶのを眺めながらゆっくりとお茶を飲むのだった。日差しは少し強いが木陰は十分大きくて、そこに吹く風はさわやかである。名前はわからないが、鳥がよい声で啼いている。私にミルクティーを注ぎながら、サルマ女史が言う。私はアラブ以外の生活についてはよくわからないけれど、こうやってお母さんやお友だちと、のんびり過ごすのが好きだわ。アッラーにお祈りをして、みんなで食事をしたり子どもたちの世話をしたりして過ごすのが、何よりも好き。私たちの生活は、とっても単純で簡単なの。お金が無かった頃からね。

 サルマ女史の着ている長衣の大きな花模様が、風に靡いて柔らかく揺れた。すっかり嬉しくなった私は、それから甘いミルクティーを二杯、おかわりした。


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by chicayoshi | 2013-07-14 21:43 | アブダビ | Trackback | Comments(0)

短歌結社「かりん」所属齋藤芳生のブログです。「みしゅみしゅ」はアラビア語で「あんず」のことです。主に齋藤芳生の掲載情報やエッセイなど。最近は写真も好きです。どうぞよろしく。


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